つれづれなるままに、目に止まった記事のコピーです。
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安田靫彦『五合庵の春』

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天をついて亭々とそびえる杉木立。その木陰に子守姿の村の少女と手まりを持った村の童が立っている。春の昼下がりであろうか。

欝蒼とした杉木立の中に、そこだけ明るい庵がある。そこに今、一人の老人が身を起こそうとしている。子どもたちが、「りょうかんさま!」「りょうかんさま!」と呼んでいるからである。

「五合庵の春」と題された安田靫彦(ゆきひこ)の作品。五合庵とは、超俗の禅僧で歌人そして書家としても名高い良寛が住んでいた越後(新潟県)の国上山(くがみやま)の中腹にある8畳一間の粗末な庵である。

安田靫彦は若い頃から良寛に傾倒し、『良寛遺墨集』を監修し、出雲崎の良寛堂を設計し、良寛をいくつも描いている。この作品はなかでも明るいほのぼのとした情感のただよう作調となっている。

良寛といえば、今日の日本人が歴史上の人物の中で、もっとも慕わしい懐かしい人としてあげる一人である。なぜ、日本人は彼をこれほど慕わしく思うのであろうか。

良寛はいうまでもなく、家族も持たなければ、どの集団にも所属しないで、日々食を乞いながら越後の山里で世を捨てた生活を一生送った人である。

いっぽう、平均的な日本人は家族主義的で現実主義酌、集団帰属型で勤勉上昇型である。その日本人にとって、それとはおよそ対極にある良寛が人気があるというその矛盾、つまり自分とはちがう良寛に惹かれるその矛盾そのものに、日本人の矛盾をかかえた人生観あるいは死生観の本質的なものが隠されているのかもしれない。

あるいは良寛を見ること考えること、それは日本人を見ること考えることなのかもしれない。

たとえば、川端康成はノーベル賞受賞記念講演で良寛を代表的日本人として世界に紹介した。そのとき川端があげた良寛の歌は「霞立つ永き春日を……」の歌であった。良寛が子どもたちと手まりをつく名高い歌である。この歌の全体は次のような長詩と反歌でできている。

冬ごもり 春さり来れば
飯乞ふと 草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと
手毬つく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝(な)はうたひ
つきて唄ひて 霞たつ
永き春日を 暮らしつるかも

霞たつ ながき春日を こどもらと
手まりつきつゝ この日暮らしつ

こどもらと 手まりつきつゝ この里に
遊ぶ春日は くれずともよし

長く辛い冬が去り、暖かくのびやかな春が来た。良寛の心の弾み全身の喜びがあふれた歌である。

その良寛を待ち受けていたのは、村の子どもたちであった。良寛も村童にたく呼びかけられると喜んでそれに応じ、托鉢(たくはつ)も忘れて、手まり歌をうたい、我を忘れて毬つきに熱中する。

良寛が無心になって子どもたちと遊ぶ姿について、解良栄重(けらよししげ)の『良寛禅師奇話』には、こんなほほえましい話がのっている。

手マリヲツキ、ハジキヲシ、若菜ヲ摘、里ノ子共トトモニ群レテ遊ブ。地蔵堂ノ駅ヲ過レバ、児輩必相追随シテ、良寛サマ一貫ト云フ。師、驚キテ後ヘソル。又二貫ト云ヘバ、又ソル。二貫、三貫ト其数ヲ増シテ云ヘバ、師ヤゝソリ反リテ後ロヘ倒レントス、児輩コレヲ見テ喜ビ笑フ。

春の喜びのなかで、墨染めの衣をひるがえして子どもたちと遊び戯れる良寛の姿が、美しい絵のように伝わってくる。

じつは、その当時、いや一昔前までは、大人が子どもと一緒に遊ぶということ、まして毬つきに熱中するようなことはほとんど見られなかった。大人とくに成人男子は働くものであり、女子のように手まりなどつくことは軽蔑の目で見られていた。

つまり、人間はなにか役に立つことをすべきで、遊んでいることは非難された。僧侶なら僧侶らしくお経でも読んでいればいい。修行もしないで、子どもたちと遊びほうけているとは、なんということか……。

良寛はそうした非難にたいして弁解しない。ひたすら遊びのなかに溶けこんでいく。それは歌をよみ書をかくのとおなじ心であり、そして仏の道への心でもある……、と胸の中でつぶやいていたのかもしれない。

とはいえ、子どもたちと遊びほうける人ばかりでは、家も保てないし、国も成り立たない。家を思い国を思う人、勤勉で実直な人がいなければ、この世の中は立ちゆかない。

良寛も若い時はライ病院を再興しようというような社会的意欲があった。しかし、私たちはなぜか、そうした社会派良寛より、村の子どもたちと手まりをついて日を暮らす世捨て派良寛のほうを慕わしく思う。

それはおそらく、日本人は現実への執着心が強く勤勉で上昇志向であり、競争や管理に流れやすい傾向があるだけに、メンタリティの深層に孤独とか無一物、あわれとか遊びという価値への憧れがより強く深くあり、その憧れが日本人一般の良寛敬慕という現象になるのではないだろうか。

つまり、良寛はもっとも日本人的でないところがもっとも日本人的と考えられるのかもしれない。

さて、良寛といえば、晩年、若く美しい貞心尼との出会いがある。じつは、このときも師弟のあいだで手まりが愛の大切な仲立ちとなる。

貞心尼は良寛が手まりの好きなことをかねて知っていたので、「これぞこの ほとけの道に遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ」という仏道の弟子としての歌を捧げた。

この歌に良寛は次のように返している。

つきてみよ ひふみよいむなやここのとを
十(とう)とをさめて またはじまるを

良寛のこの歌も仏道の心を説いたものである。一から始めて十に至り、また元の一に戻る。毬つきも無限の循環……。生きるとは今を生きるだけ……。

この歌を贈られた貞心尼は良寛のもとへと遠路を急いだ。その後、二人の逢瀬には手毬があたかも相聞の歌声のように投げ交わされる。

貞心尼が「歌やよまん 手毯やつかむ 野にや出む 君がまにまに なして遊ばむ」と歌うと、良寛はこう返している。

「歌もよまん 手毬もつかむ 野にも出む 心ひとつを さだめかねつも」

2人は年齢を忘れ男女をこえ、ひたすら歌をよみ手毬をつき野に出て、「遊ぶ」ことにひたりきっているのである。

立川昭二「手まりつきつゝ」
北里大学名誉教授

安田靫彦『五合庵の春』
大正9年 東京国立博物館

癒しの美術館
Vita Vol.23 No.1(通巻94)
2006/1・2・3
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by yokokai2 | 2006-01-13 14:38 | エッセー
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