人気ブログランキング | 話題のタグを見る

つれづれなるままに、目に止まった記事のコピーです。
by yokokai2
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31


いれずみ物語

いれずみ物語_a0042914_035884.gif

昔、沖縄・奄美大島など西南諸島の女性はこぞって手の甲にいれずみをした。

浄土宗の碩学、袋中が、『琉球神道記』に、「(前略)又女人の針衝(女人ハ掌ノ後ニ針ニテシゲクツヰテ墨ヲサスナリ)何事ゾヤ。……」とあり、小原は「これは琉球語<ハヅキ>の語源について述べた最初のものである」と記している。

このいれずみを沖縄や奄美では「ハジチ」「ハヅキ」などという。すなわち「針突」である。大人になった証、通過儀礼としてのいれずみであった。

幕末の頃、奄美ではいれずみの代価として米三升が杣場で、それでいれずみすることを「三升突き」ともいった。明治30年代まで行われていたらしい。

奄美では廃藩置県に伴って、それ以外の沖縄・宮古、そして八重山は明治12年に沖縄県となった。明治政府はその発足に伴っていれずみ禁止令を出したが、沖縄のみはその事情を考慮して明治32年になって禁止令を発令した。

しかしながら、風俗としていろいろな意義を有するハヅキを隠れて入れた女性は少なくなかった。

それでも次第にこの風習は消え去り、現在これを見ることはまずないが、まれに、最近まで高齢者の手に鮮やかに残っていた。

ハンセン病療養所・宮古南静園の菊池一郎園長が平成7年赴任した際、当時95歳の老女の手に典型的なハヅキを見て感激した。

ハヅキは女性の誇り、あこがれであり、その老女もそれを自慢の種にしていたという。宮古島でハヅキは、昭和の初めに行われたのが最後らしい。

いずれにせよ、年齢的な要因からも、現在もうハヅキを見ることはまずない。

奄芙などの民謡に「トジ欲しゃもちゅとき 夫欲しゃもちゅとき あやハディキふしゃや命かぎり」(妻ほしさも一時、夫ほしさも一時、入れ墨欲しさは私の命かぎり)と詠われている。

男にもそれは魅力で「腕あげりゃあげり あやハディキ拝も胸あきりあきり
 玉乳拝も」(腕をあげてきれいに彫られた貴女の入れ墨を拝ましてくれ、胸をあけて、玉のようなにきれいな貴女の玉乳を拝ましてくれ)と島唄にある。

それにしても、なぜ南嶋の女性はいれずみにかくもこだわってきたのであろうか。若いきれいな皮膚に青が映えて、男をそそるだけではあるまい。

なぜ南嶋にこの習俗が始まったかについて、西暦14世紀の中葉、中山王察度の時に、中山再興の神宮・聞得大君が久高島参詣の途中暴風に遭って日本に漂流した話に伴った伝承がある。

聞得大君の行方不明後、凶年が続いたので、捜索に出かけ紀伊の国にいた彼女を連れ戻したが、なぜか御殿に入るのを拒んだ。

その理由のひとつとして伝承では、紀伊の国の片田舎の村長の妻になっていたので、再び聞得大君御殿に入るのを遠慮したという。

さらに村長の厄介になって、とうとう結婚を申し込まれたので、不承々々に結婚することになったのを、一人の侍女の機知で、手の甲に入れ墨をして三三九度の杯を行ったが、男が杯を差し出した時、女君が例の手を差し出すと、男はびっくりして杯を落としたので、不吉だといって、式がおじゃんになったという話もある。

そういう訳で手の甲にいれずみをしていると、大和に連れて行かれないということにもなった。

その他にもいろいろな話が伝わっている。市川は沖縄全体に共通する理由として、死後、先祖に会ったとき、そのいれずみが子孫であることの証明だとするというのである。

若い娘が死んで、未だ針突をしていなかった場合には、納棺に際してその娘の手に針突の文様を筆で描き加えてやったという。

「あやはづきや 欲しや命まぎり、それが後生迄の形見」と詠われている。

小原はいれずみを詠った多くの歌謡から、
1) 入れ墨に永世の観念があったこと、
2) 島によって特定の人れ墨施術者がいたこと、
3) 結婚と不可分の関係があったこと
4)手の甲の入れ墨は水草の花の色を思わせる美しい青い色を帯びていること
を指摘している。

女の自慢であった針突も、針突禁止令以後、風俗改良の名のもとそれが軽蔑される風潮が生まれ、大正5年に象徴的な事件が発生した。

フィリピンに針突を入れた女性が移民してきたことに憤慨した現地の沖縄の人たちが、対応策を話し合うために県人会を設立した。

「比律賓の富源は今後いくらも沖縄青年の出稼ぎを歓迎するのだから、彼等3名の入墨女の為に本県人に恥をかかせるのに忍びないと、気の毒ながら彼等を送還することになったとの事である」と琉球新報(1916・7・22日付)が報じた。

また、明治の頃の話として、奄美出身で東京の官界で出世した人が、母親を東京へ呼び寄せたが、手のいれずみを気にして人前に出るのをはばかり、夏でも手袋を用いていたが、再び島に戻ってしまったという。

紡績女工として本土に働きに来た人の中には、手に硫酸をかけて針突を消した者もいるという。

針突が禁止されて100年を超えた今、若い人たちがファッション感覚でいれずみするのを、彼女たちは友国でどう見ているのだろうか。

小野 友道「南嶋の女のいれずみ」
(熊本大学理事・副学長)
いれずみ物語 6

大塚薬報 2006/No 617
2006年7・8月号
大塚製薬工場
by yokokai2 | 2006-08-03 00:35 | エッセー
<< 飲茶の歴史と文化 密かな憧れ >>